神様になりたかった私

 

ツイッターでこんなツイートをした。

 

完全な愛は、すべての執着を捨て去った無関心の果てにあるような気がしてならない 愛の反対は無関心だけど 愛もまた無関心と繋がっている…という気がしてならない

 

大学が始まって早2週間。順調に疲労が溜まっていた。やっぱり運転免許なんて取らなくてよかった。目覚ましは10回目くらいでようやく私を起こし、私は母に急かされながらパンケーキを焼いた。

午前中ベッドの中でもんもんと考えていた。主に私と彼氏の関係について。彼氏は客観的に見てとても私のことを大切にしてくれている。たぶん文句のつけ所がないばかりか10人中7人くらいは彼のことを賞賛するだろう。残りの3人はおそらく目が節穴であり、耳に特大の耳垢が詰まっており、正常な思考ができないほど疲れきっている。

と言うとただの溺愛彼女だと思われるので彼に関するエピソードを簡単に。

 

・デートしていた時に私の体調が悪くなってしまったら彼氏が何のためらいもなく近くの飲食店に入って適当なものを頼みつつ休ませてくれた。「ここ入ってみたかったんだよね」というフォロー付き。すばらしい。

・他にも、私が胃を悪くしている時期はなにかと消化のいいものを作ってくれたり、過呼吸になったら治まるまで背中をなでてくれたりした

・社会人であるにもかかわらず仕事の行き帰りには必ずLINEを返してくれる

・私が起きている時間に帰ってくれば電話してくれる

・私が学生だからとデート代をもってくれる

・いつも家では料理を作ってくれる

・こんなメンヘラと付き合い続けてくれる

これをお読みになった10人中13人は彼氏のことを聖人君子だと口を揃えて言うんじゃないだろうか。私にはもったいないくらい素敵な人が私にはもったいないくらい私を大切にしてくれている。

それにもかかわらず私はたまに自分が大切にされていないと感じることがある。何故なら私が心の貧しい、卑屈な、どうしようもない、自己愛ばかりの人間だからだ。私がどれほど些細なことに腹を立てているか皆さんにお分かりいただくためにここは恥を晒そうと思う。

 

・どうせあなたは大学生で暇だから、と言う。まったく暇ではなく心身壊しかけてようやっと生きてるのに何を見ているのか。

・予定をころころ変える上に連絡を怠る。泊まる予定→キャンセル→やっぱり今日20時に〇袋に来て(当日14時に連絡)、となった時は怒ってしまった

・二人で会える、かつ彼が休める日が日月しかないのに、上司に休みたい曜日はないのと聞かれても言わない。希望が通らなくてもいいから希望はしてほしかった。

・喧嘩にしろ小さな言い合いにしろ私が譲歩してばかりで彼は譲らない

 

などなど彼氏彼女にありがちなどうしようもない些細な話だ。これに同意する人は私同様、現時点で人間性に救いようのない問題を抱えている。彼には彼の人生があり生活がある。事情があり気持ちがあっての行動である。これに腹を立てる私は自己中心的であり、彼氏への心遣いもとい愛が足りず、頭がおかしく、幼稚で、精神を病んでいるとしか考えられない。毎朝写経に勤しみ、週末は滝に打たれ、一刻も早くこのどうしようもない煩悩を捨てるべき最たる人間のひとりと言って差し支えない。

私は自分の心がなぜ狭いのかを考えていた。そして思った。愛が足りないのだ。彼氏は愛に溢れ、人間としても優れている。私は自分勝手であり、彼を愛する気持ちが足りないのだ。

そして冒頭に戻る。

私は布団の中で考えていた。純度の高い愛とは何だろう。相手を傷つけず、自分の意思を挟まずに相手の幸福をただ祈る愛はなんだろう。それはどんな形をしているのか。

私はあまりに執着にまみれすぎていて、それが私自身を苦しめるばかりか彼氏を煩わせている。私の執着は関わるものすべてを幸福から遠ざけていた。この執着がなければ私はすべてを愛し、すべてを許し、神様のように彼氏のすべてを包み込むことができるのではないか。

そしてついに、私は答えらしきものに辿り着いたのだ。

 

完全な愛は、すべての執着を捨て去った無関心の果てにあるような気がしてならない 愛の反対は無関心だけど 愛もまた無関心と繋がっている…という気がしてならない

 

きっと完全な愛は執着を捨て去った果てにある。愛は執着であるけれど、ある一点を超えると、執着が幾重に折り重なった瘡蓋のように少しずつ剥がれていき、完全に何もない、つるりとした丸くやわらかい透明のものが残る。それはすべてを受け入れ、愛し、幸福にし、慈しむ。

きっとそれが本当の愛だ。

すべてを愛する、神様の姿なのだ。