究極の選択は心臓を凍らせる

 

彼との関係でつらくなった時は、「つらい?もう限界?頑張れない?」と自分に問いかけるようにしている。

「もう頑張れない?」と自分に問いかければ、答えは今までのところ、百パーセント「イエス」だ。「ノー」はない。なぜなら、「ノー」になったら彼と別れる選択をし、その時点で私に彼は存在しなくなり、彼との関係におけるつらいことも存在しなくなるからだ。

私の生来の、というとあまり正確でないが、ここ数年の性質として、つらいつらいと言いはするのだけど、人から「つらいね」「大丈夫?」と聞かれれば必ず大丈夫、まだ頑張れると言えてしまうのだ。まして「もうやめる?」なんて聞かれたら「絶対続ける」と返してしまうのだ。だから自分の中に他者を作って「つらい?」と問いかける。条件反射的にでも前向きな言葉が出れば、今度はそれをエネルギーにして頑張ればいい。

我ながらとても効果的なライフハックだと思う。打たれ弱い割に諦めも悪い、私みたいなタイプの人は、ぜひ使ってみてほしい。今日に限っては私がアルファブロガーでないことを残念に思う。

「もうやめる?」と自分に問いかけるということは、今現在の苦しみが彼と別れる苦しみよりも勝るかどうかを問うということだ。こんな思いをするくらいなら別れた方がましなのか、それとも別れる方がつらいのか、比較検討するということだ。

目下のところ、私はどんな苦しみも彼を失う苦しみには及ばないと思っている。

けれど、彼に蔑ろにされていると感じる時、過去に飲み込んだ感情が波のように自分を襲う時、私は形容しがたい悲しみに襲われる。それは、何かに及ばない悲しみではあったとしても、私を傷つけ、一旦は日常の中に埋もれてしまったとしても、寄せては返す波のようにまた私を傷つける。傷ついたことよりも、それを飲み込んだことが、後々に私の心を蝕んでいく。

「別れるほどではない」と自分に言い聞かせて感情を飲み込むことは大きなストレスを伴う。私は最近、自分がいつまでそのストレスに耐えられるだろうかと考えるようになった。これから先、二年目、三年目、十年目、二十年目…いつかこれまでに蓄積された寂しさ、怒り、失望、悲しみが膨れ上がって、それが別離の悲しみを上回ることがあるのだろうか。それまでに、私は心身の健康を損なわないでいられるのだろうか。彼への愛は、歪まず、綺麗な形を保てているのだろうか。今、彼を、まっすぐに愛せているのだろうか。

言葉を一つ飲み込むたびに、指先が少しずつ冷えていく。温度を失って、自分のものであると感じられなくなる。それはゆっくりと広がって、私の身体をじわじわと凍らせていく。いつかそれが心臓に達した時に、私は死ぬのだ。鼓動しているが、しかし冷え切った心臓を抱えて、悲しむことはもうなく、37℃の涙が氷を溶かすこともまたない。