最後

 

2年10ヶ月付き合った彼氏に別れを告げた。

私と彼氏の最後の瞬間を死ぬまで忘れないために、ここに記す。

彼氏は、今はもう元彼氏になってしまうけれど、元彼と書くとあまりに寂しいので、Aさんとする。

 


私はAさんと結婚を前提にお付き合いしていた。理由は2つあって、1つはAさんが結婚を視野に入れる年齢にあったこと、もう1つは私が結婚を視野に入れない交際に意味がないと思っていたことだ。

付き合い始めた16年の春から3年目となる18年の夏まで、私はAさんと将来結婚することを疑っていなかった。

きっかけは微かな違和感のようなものだったと思う。セックスをしたいと思えない、とか。サークルや就職活動で忙しい時に連絡を取ろうと思えない、とか。

それまでの私の生活はAさんを中心に構成されていた。Aさんの休みが出て、デートの予定が立ってから空いた日に自分の予定を組んでいた。それが、就職活動やサークルで、Aさんではなく自分の用事を優先して予定を組むようになる。その過程で変な言い方だけど、Aさんの意思とは違う独立した自我のようなものが私の中に芽生えてきた。

その頃から私はAさんとの約束を少しずつ破り始める。先輩に誘われるままに煙草を吸ったり、男友達と二人きりで飲んだりした。そうして、Aさんによって形成された、お守りでもあった殻を、破り始めた。それを新鮮に感じていた。

秋。就職活動が佳境に入る。今までの人生で一番真剣に、自分の人生観と向き合った。何を成し遂げたいか。どう生きたいか。その中で自分はどうあっても、ストイックに生きる人の部類に入ると思った。常に現状に満足せず、自分に与えられた時間を十二分に使って生きる人になるし、なりたいと思った。それはAさんの生き方とは違っていた。Aさんは、まぁこんなもんかな、という満足度で収まる人だった(それでも社会的に十分な立場にあったけど)。

一緒に生きていくとなったらその違いは致命的だと思った。12月頃から別れを考え始める。しかし、2年9ヶ月分の幸せすぎる時間は、簡単に切って捨てられるものではなかった。

状況が変わったのは12月末。Aさんの方から踏み込んだ将来の話をされる。「あなたが社会人2年目の間までに同棲したい。その約束ができないなら、別れる」。婚約にも等しい重さの約束だった。

21歳の今、Aさんと婚約するか、それとも別れるか。どちらを取っても重い選択だった。悩みに悩んで、何度も胃液を吐いた。頭では最適解が分かっていても、結論を出す勇気が出なかった。それでも、結論を出す日を決め、私はそれまでの間に自分の考えを整理した。

自分の価値観がまだ変化していること。その段階で、婚約という人生の大きな決定はできないこと。

泣きながら友達に相談し、考え、納得した答えをぶつけた。

するとAさんは「わかった」と答え、しばらくして言った。「待つよ」

私の気持ちが固まるまで待つ。待った結果、待ち時間が無駄になっても構わない、と。

私は拍子抜けして一旦話をやめた。ありがとうとだけ言って、一日と少しの間考えた。

いつまでも待ってくれるなら、今すぐ別れる必要はない。けど私はもうずっと考えて、Aさんなしで生きていく人生設計を立ててしまった。お粗末なプログラムでできている私の脳は、今更前のルートには戻れない。

何より、目先の悲しさよりも自分の人生観に向き合って結論を出した私にとって、それまでの主張を覆して「私を待つ気持ちになった」というAさんの考えは受け入れられないものだった。

今日、10時半を少しすぎた頃だったと思う。

どんな言葉を使ったか覚えていないが、大体そのような感じで自分の気持ちを伝えた。

「だから、別れよう」

Aさんは「そうか」と言って、それから「よく決めたね」と言って私の頭を撫でた。

私はずっと泣いていた。

Aさんはいつも感情的にならず落ち着いている人だったけど、少し目が赤かった。もしかしたら泣いていたのかもしれない。何度も抱き合って「大好きだったよ」「別れたくなかったよ」と言ってくれた。

私だって別れたくなかった。

私のことを丸ごと全肯定してくれて、愛してくれる人を、愛される幸せを享受する温かい時間を、手放したくなかった。

それでも、自分の人生観とAさんの人生観が合わないと思ったから、別れなければいけないと思った。自分の人生に対してストイックであれ、というのが、私のモットーだから。常に真摯に考え続けなければ生きていけないのが、私だから。

「〇〇は最初から最後まで泣いてばかりだね」

泣き続ける私の涙を優しく拭きながらAさんは言った。

「拭いてくれる人見つけるんだよ」

「もっと幸せになるんだよ。結婚決まったら教えてね」

私は「〇〇(彼氏)もね、結婚決まったら教えてね」と言った。幸せになってね、とは、なんだかどの口が言うんだという感じで言えなかったけど、幸せになってほしかった。

本当は私は一緒に幸せになるつもりだった。ずっとそう思っていた。でも違うと思ったから、別れなきゃいけないと思った。結婚がないなと思った人とは付き合わないのがポリシーだから。だから。

 


Aさんの家にあった荷物を全てスーツケースに詰めて、一緒に家を出た。最後だね、と言いながら。

布団から出る直前、今ならまだ間に合うよ、とAさんが言った。

本気なのだろうな、と思った。その気持ちが痛いほどわかった。私も同じ気持ちだった。今まで3時間の話は全部嘘です、悪ふざけです、ごめんなさい、と言いたかった。全部嘘にしたかった。

でも、できなかった。

Aさんもそれは分かっていて、それでも、言わずにはいられなかったんだと思う。

それほど私のことを愛してくれていた。

私はよく分かっていた。

駅で別れて「ばいばい」と言って、その後は目を合わせなかった。

ばいばい。

また、ね。

ありがとう。

愛してくれてありがとう。

大切にしてくれてありがとう。

あなたと一緒にいて幸せでした。

幸せにできなくてごめんなさい。

悲しい思いをさせてごめんなさい。

今までありがとう。

心の底から愛してました。

 


さよなら。

 

 

究極の選択は心臓を凍らせる

 

彼との関係でつらくなった時は、「つらい?もう限界?頑張れない?」と自分に問いかけるようにしている。

「もう頑張れない?」と自分に問いかければ、答えは今までのところ、百パーセント「イエス」だ。「ノー」はない。なぜなら、「ノー」になったら彼と別れる選択をし、その時点で私に彼は存在しなくなり、彼との関係におけるつらいことも存在しなくなるからだ。

私の生来の、というとあまり正確でないが、ここ数年の性質として、つらいつらいと言いはするのだけど、人から「つらいね」「大丈夫?」と聞かれれば必ず大丈夫、まだ頑張れると言えてしまうのだ。まして「もうやめる?」なんて聞かれたら「絶対続ける」と返してしまうのだ。だから自分の中に他者を作って「つらい?」と問いかける。条件反射的にでも前向きな言葉が出れば、今度はそれをエネルギーにして頑張ればいい。

我ながらとても効果的なライフハックだと思う。打たれ弱い割に諦めも悪い、私みたいなタイプの人は、ぜひ使ってみてほしい。今日に限っては私がアルファブロガーでないことを残念に思う。

「もうやめる?」と自分に問いかけるということは、今現在の苦しみが彼と別れる苦しみよりも勝るかどうかを問うということだ。こんな思いをするくらいなら別れた方がましなのか、それとも別れる方がつらいのか、比較検討するということだ。

目下のところ、私はどんな苦しみも彼を失う苦しみには及ばないと思っている。

けれど、彼に蔑ろにされていると感じる時、過去に飲み込んだ感情が波のように自分を襲う時、私は形容しがたい悲しみに襲われる。それは、何かに及ばない悲しみではあったとしても、私を傷つけ、一旦は日常の中に埋もれてしまったとしても、寄せては返す波のようにまた私を傷つける。傷ついたことよりも、それを飲み込んだことが、後々に私の心を蝕んでいく。

「別れるほどではない」と自分に言い聞かせて感情を飲み込むことは大きなストレスを伴う。私は最近、自分がいつまでそのストレスに耐えられるだろうかと考えるようになった。これから先、二年目、三年目、十年目、二十年目…いつかこれまでに蓄積された寂しさ、怒り、失望、悲しみが膨れ上がって、それが別離の悲しみを上回ることがあるのだろうか。それまでに、私は心身の健康を損なわないでいられるのだろうか。彼への愛は、歪まず、綺麗な形を保てているのだろうか。今、彼を、まっすぐに愛せているのだろうか。

言葉を一つ飲み込むたびに、指先が少しずつ冷えていく。温度を失って、自分のものであると感じられなくなる。それはゆっくりと広がって、私の身体をじわじわと凍らせていく。いつかそれが心臓に達した時に、私は死ぬのだ。鼓動しているが、しかし冷え切った心臓を抱えて、悲しむことはもうなく、37℃の涙が氷を溶かすこともまたない。

 

 

手を振ってさようなら

 

私には二人のおじいちゃんがいる。そして二人とも既に亡くなっている。父方は私がまだ5歳の時、そして母方はつい4ヶ月前、私が成人して間もなくに。

父方のおじいちゃんとの記憶は、仕方のないことだが、あまりない。台所でたばこを吸っていた姿と、陶芸小屋でおじいちゃんの隣で粘土を触らせてもらったこと。ろくろには触るなと言われたこと。聴診器をつけさせてもらったこと。

父方のおじいちゃんは病気で亡くなった。発見された時には手遅れで、入院して1ヶ月も経たずに亡くなった。だから一度しかお見舞いに行けなかった。好物だったトマトを持っていったのに、「今はいらない」と一口も食べなかった。最後に病室を後にする時、体を起こして手を振っていた。

母方のおじいちゃんもまた病気で亡くなった。こちらは数年間透析生活で自立型の施設みたいな所で普段は生活していて、私達が帰ると一緒に家に連れて帰った。おじいちゃんとの記憶は、おじいちゃんが元気だった頃から施設に入った頃まで、たくさんある。忘れないようにまた書こうと思う。

初夏の頃、おじいちゃんは入院した。ちょっと数値が怪しいから検査、その程度の入院だった。けれどそれから数週間したある日、今すぐ喪服を持ってこちらに来て、と呼び寄せられた。駆けつけた病院で、おじいちゃんはいくつもの管に繋がれて、呼吸器をじゃまそうにしながらやっと会話する状態だった。

私達はおじいちゃんが長くないと分かっても、おじいちゃんの元にずっといることはできなかった。亡くなったら葬儀やその準備もある。みんな仕事や学校のためにひとまず戻らなければいけなかった。じゃあね、おじいちゃん。またすぐ戻ってくるから、それまでにもう少し元気になってね。そう言って病室を後にした。起き上がる元気もなかったのに、黄疸してむくんだ腕を肘から起こして手を振ってくれた。おばあちゃんが冷えるからと腕を布団にしまったら、また手を出して振った。ばいばい。

それが生きているおじいちゃんに会った最後だった。

あの手は私達にさようならと言っていた。父方のおじいちゃんも、母方のおじいちゃんも、本人達が意識しないまま、最後の別れを告げたのだ。意識よりももっと深いところで、もう会わないと分かっていたのだ。

次に誰かが力なくふらりと、しかし確たる意思を持って手を振るのを見たら、その場から動けるかどうか分からない。でも、きっと動くんだろう。その場から背を向けて、どこか遠いところで泣くのだ。なぜなら、亡くなる人以外は、生きていかなければいけないからだ。それが残された私達の、一番つらい仕事なのだ。

 

 

あの日教室の隅で

 

この間、ネットで知り合った人とリアルで会いました。平たく言えばプチ・オフ会です。元々同じ大学、同じ学部で同じ授業だってことは分かって繋がってたけどね。それで、会った後に言われた言葉が印象に残りました。

「信頼できそうで信頼できない人だって思った」

彼すごいなあ、と思った。印象がどれくらい本質を言い当てているかはさておき、ほんの少し話しただけでこんなに密度の濃い印象を抱くなんてすごいなあ。ちなみに彼は本当に根っからのいい人そうでしたよ。会ってよかったと思います。

その言葉を見たときに思い出したことがあるのです。あれは確か高校の頃だったかなあ。放課後、たまたま教室に残っていたら、たまたま教室に残っていたクラスメイトに

「(私)さんって本当は誰のことも好きじゃないよね」

って言われたんですね。なんかこの間言われたことと似てて、懐かしくなりました。全く違う時間、違う集団にいる私に対してかけられる似た言葉、なんだかとても不思議です。

 

昔の私はかなりヤバい奴だった。それを改めようと思い始めたのが高2の頃。満足のいく出来栄えになってきたと思えたのが最近。

短所を改めて、人並みに振る舞うようになると、びっくりするくらい人から好かれるようになった。立ち居振る舞いって本当にすごいし、昔の私って本当にダメだったと思う。でも人並みに本心を隠し、人並みに周りを見て行動していると「本当は誰のことも好きじゃない」とか「信頼できそうで信頼できない」とか、あるいは「本心が分からない」なんて言われるようになった。ええ〜!?となる。本心、ダダ漏れじゃないですか。周りの人が好きで、自己中心的で、すぐに人のこと信じちゃう。本当だよ。信じるだけで、期待はしないけど、本当に信じてるよ。

でも、ここまでつらつらと書いて気付いたことがある。きっと私の世界には「他者」がいないんだなあ。もしかしたら本当に自分のことしか好きじゃなくて、明日朝起きた時には、何もかもを忘れているのかもしれない。

 

 

 

おじいちゃんが生きていた頃


祖父が亡くなって100日あまりが経った。小さい頃から私をかわいがってくれ、いつもにこにこと笑っていたおじいちゃんはいなくなってしまった。博識だったおじいちゃんから何かを教わることは二度とない。

そして、残念なことに、私とおじいちゃんの思い出もまた、月日とともに薄れていく。なので、おじいちゃんとの思い出を書いていく。

以下は、おじいちゃんがもう長くないと分かってからおじいちゃんが旅立つ日までの間、1日1つずつ書きためていったものをまとめたものです。おじいちゃんの残り少ない日々を一緒に過ごせず、大学やバイトに行くしかなかった私が、途方のない恐れと悲しみのなかで書いた、おじいちゃんとの幸せな思い出です。

私の成長を心から喜んでくれたおじいちゃんに捧ぐ。

 

おじいちゃんは果物の皮を剥くのが上手かった。トウモロコシの種を一つずつ剥がすのも上手だった。特に後者はおじいちゃん以外にはできなかった。私はおじいちゃんの隣に座っておじいちゃんの剥いた果物やおじいちゃんが剥がしたトウモロコシをぱくぱく食べるのが好きだった。

 

おじいちゃんはお酒が好きだった。いつも飲んでいたのはウイスキーで、日本酒やワインも好きだった。おばあちゃんは健康のために控えろと口を酸っぱくして言うので、寒くない時期おじいちゃんは隠し部屋めいた書斎でのんびり飲んでいることがあった。私はよくそこで昼寝をした。

 

おじいちゃんは鳥が好きだった。家の庭の岩に板を置いて、その上に古いお米を撒いて雀が啄むのを楽しそうに眺めていた。弟の入学式でこちらに来てくれたおじいちゃんと手を繋いで駅まで行った時は、見かける鳥の名を全部教えてくれた。おじいちゃんはとても物知りだった。

 

おじいちゃんは料理が上手だった。魚や貝を捌くことができたし、鮟鱇の共和えやイカの塩辛を作ることもできた。足腰が弱ってからは台所に立つことも少なくなったが、ある日思いついたように台所に行ってうどんを茹でてくれた。おそらくおじいちゃんの最後の料理がそれだった。何年も前の話。

 

小さい頃はおじいちゃんの布団に潜り込んで寝るのが好きだった。おじいちゃんからはおじいちゃんの匂いがした。おじいちゃんはよく寝かしつけに昔話をしてくれた。一番印象に残っているのは舌切り雀だが、他にも色々な昔話をしてくれた気がする。

 

おじいちゃんはつるりと禿げていた。私が小さい頃おじいちゃんは「(私)の髪はつやつやしていていい髪だね。おじいちゃんはね、(私)が生まれる時に(私)に髪の毛をあげたから禿げているんだよ」と言っていた。しかし何年も後になって分かったことだが、母も小さい頃同じことを言われていたのだ!

 

おじいちゃんは教師だった。鷹揚な人柄から生徒に慕われていてバレンタインには紙袋数袋ほどのお菓子を貰っていたそうだ。朝礼での話もまとまっていて面白かったと聞いた。おじいちゃんの教師姿を見てみたかったなあと思う。

 

おじいちゃんは去年の秋頃に入院した時にぽつりと「トマトが食べたい」「カステラを食べたい」と漏らしたそうだ。トマトは確かに好物だったがカステラを欲しがるとは!家族みんなで不思議がり、その年の冬はおじいちゃんを一時帰宅させてみんなでカステラを食べた。

 

(ここまで)

 

おじいちゃんが亡くなる時、私には何となく予感があった。母から電話がかかってきた時、私にはもうその内容が分かっていた。そのことが、無性に悲しかった。

おじいちゃんはこの世にもう執着がなくなったんじゃないかと思う。出棺の日も、お葬式の日も、びっくりするくらい綺麗に晴れていたのだ。

不思議だなあ、と思う。いつかこの不思議な気持ちがなくなった時、おじいちゃんはあちらの人になるんだろうか。今、無性に森絵都の『ラン』を読みたい。

 

 

 

神様になりたかった私

 

ツイッターでこんなツイートをした。

 

完全な愛は、すべての執着を捨て去った無関心の果てにあるような気がしてならない 愛の反対は無関心だけど 愛もまた無関心と繋がっている…という気がしてならない

 

大学が始まって早2週間。順調に疲労が溜まっていた。やっぱり運転免許なんて取らなくてよかった。目覚ましは10回目くらいでようやく私を起こし、私は母に急かされながらパンケーキを焼いた。

午前中ベッドの中でもんもんと考えていた。主に私と彼氏の関係について。彼氏は客観的に見てとても私のことを大切にしてくれている。たぶん文句のつけ所がないばかりか10人中7人くらいは彼のことを賞賛するだろう。残りの3人はおそらく目が節穴であり、耳に特大の耳垢が詰まっており、正常な思考ができないほど疲れきっている。

と言うとただの溺愛彼女だと思われるので彼に関するエピソードを簡単に。

 

・デートしていた時に私の体調が悪くなってしまったら彼氏が何のためらいもなく近くの飲食店に入って適当なものを頼みつつ休ませてくれた。「ここ入ってみたかったんだよね」というフォロー付き。すばらしい。

・他にも、私が胃を悪くしている時期はなにかと消化のいいものを作ってくれたり、過呼吸になったら治まるまで背中をなでてくれたりした

・社会人であるにもかかわらず仕事の行き帰りには必ずLINEを返してくれる

・私が起きている時間に帰ってくれば電話してくれる

・私が学生だからとデート代をもってくれる

・いつも家では料理を作ってくれる

・こんなメンヘラと付き合い続けてくれる

これをお読みになった10人中13人は彼氏のことを聖人君子だと口を揃えて言うんじゃないだろうか。私にはもったいないくらい素敵な人が私にはもったいないくらい私を大切にしてくれている。

それにもかかわらず私はたまに自分が大切にされていないと感じることがある。何故なら私が心の貧しい、卑屈な、どうしようもない、自己愛ばかりの人間だからだ。私がどれほど些細なことに腹を立てているか皆さんにお分かりいただくためにここは恥を晒そうと思う。

 

・どうせあなたは大学生で暇だから、と言う。まったく暇ではなく心身壊しかけてようやっと生きてるのに何を見ているのか。

・予定をころころ変える上に連絡を怠る。泊まる予定→キャンセル→やっぱり今日20時に〇袋に来て(当日14時に連絡)、となった時は怒ってしまった

・二人で会える、かつ彼が休める日が日月しかないのに、上司に休みたい曜日はないのと聞かれても言わない。希望が通らなくてもいいから希望はしてほしかった。

・喧嘩にしろ小さな言い合いにしろ私が譲歩してばかりで彼は譲らない

 

などなど彼氏彼女にありがちなどうしようもない些細な話だ。これに同意する人は私同様、現時点で人間性に救いようのない問題を抱えている。彼には彼の人生があり生活がある。事情があり気持ちがあっての行動である。これに腹を立てる私は自己中心的であり、彼氏への心遣いもとい愛が足りず、頭がおかしく、幼稚で、精神を病んでいるとしか考えられない。毎朝写経に勤しみ、週末は滝に打たれ、一刻も早くこのどうしようもない煩悩を捨てるべき最たる人間のひとりと言って差し支えない。

私は自分の心がなぜ狭いのかを考えていた。そして思った。愛が足りないのだ。彼氏は愛に溢れ、人間としても優れている。私は自分勝手であり、彼を愛する気持ちが足りないのだ。

そして冒頭に戻る。

私は布団の中で考えていた。純度の高い愛とは何だろう。相手を傷つけず、自分の意思を挟まずに相手の幸福をただ祈る愛はなんだろう。それはどんな形をしているのか。

私はあまりに執着にまみれすぎていて、それが私自身を苦しめるばかりか彼氏を煩わせている。私の執着は関わるものすべてを幸福から遠ざけていた。この執着がなければ私はすべてを愛し、すべてを許し、神様のように彼氏のすべてを包み込むことができるのではないか。

そしてついに、私は答えらしきものに辿り着いたのだ。

 

完全な愛は、すべての執着を捨て去った無関心の果てにあるような気がしてならない 愛の反対は無関心だけど 愛もまた無関心と繋がっている…という気がしてならない

 

きっと完全な愛は執着を捨て去った果てにある。愛は執着であるけれど、ある一点を超えると、執着が幾重に折り重なった瘡蓋のように少しずつ剥がれていき、完全に何もない、つるりとした丸くやわらかい透明のものが残る。それはすべてを受け入れ、愛し、幸福にし、慈しむ。

きっとそれが本当の愛だ。

すべてを愛する、神様の姿なのだ。

 

 

2017-04-23

朝、食後に少し咳が続いた。それからずっと胸に痰が絡んでくる。咳が出るわけでもないがどことなく息苦しく気管が落ち着かない。

無性に体がだるい。疲れている。もう止まる元気もない。いつもそうだ。生きるのに向いていない。淘汰されるべきだと思う。

眠くてだるくてしょうがない。誰かにはちゃめちゃに甘やかされ、労られたい。

体が重い。